大学受験の勉強や高校の授業で困ったときは - 塾講師が教える受験勉強のコツや勉強法

最終章 教育

 

L 教育とは

 

ここまでは、指導や解説といった言葉について私なりの定義や内容を紹介してきた。

 

指導に関連して、似たような語に教育というものがある。

 

社会では学校教育がどうこう、とよく語られる。

 

塾は教育の場の一つであるとされることがある。

 

ではそもそも教育とは一体何なのか。

 

これを考えずに教育現場の社会的意義を果たすことは難しい。

 

私見だが、教育という単語には狭義と広義がある。

 

教育とは一体何かについて私なりの考えを紹介することをあとがきとし、本書の締めとしたい。

 

直接塾講師と関係しないことも多いが、興味があれば読んでいただけると幸甚の至りだ。

 

 

L-1 狭義の教育

 

「一体、家でどんな教育を受けてきたんだ」という台詞を聞いたことがあるだろうか。

 

発言者の意図にはおそらく数学や英語のことは含まれていない。

 

つまりこの教育という言葉には、解説や指導というものが含まれていないのだ。

 

倫理観や道徳、人とのしてのマナーや生き方、考え方などが当てはまるのだろう。

 

先の台詞が「一体どうしてそんなものの考え方ができるんだ」「どうしてそのように言葉を受け取ってしまうのか」という意味であることを考えると、この場合の教育とは目の前の物事をどのように感じるようになるのかに影響を与えるものらしい。

 

このように、物事の捉え方そのものを教え修正していく教育を、私は狭義の教育として捉えている。

 

指導や解説は講師が電波を発信するのに対し、狭義の教育は電波の受信機をONにするようなものだ。

 

 

学習指導塾に当てはめるのであれば、学ぶ態度を教えることが狭義の教育だ。

 

他人の解説や指導を聞いてどんな行動を取ればいいのか、を教えるのが教育ということである。

 

教育ができていないと、解説や指導も、心に響かない。馬に念仏状態だ。念仏を分かりやすいものにしたところで意味はない。まずは馬を人にするところからだ。これが教育である。

 

 

そういう意味では、理解力を付けさせるというのも教育だ。日本語の基本を習得させるために子どもに読み書きをさせるのは、解説や指導というよりも教育なのである。

 

「参考書を読め」と「本を読め」では似ているようで本質的に意味が違う。

 

前者は参考書の内容そのものを理解させたいのに対し、後者は本の内容はもちろんだが、それに付随して感受性や理解力を身に付けさせたいのだ。

 

そう考えると、後者は教育といえるのが分かってもらえるだろうか。

 

 

L-2 行動レベルの教育と思考レベルの教育

 

「悪いことをしたら、謝りなさい」というのが教育であるのは疑う余地がないだろう。

 

ただし、この台詞には「謝っておきさえすればいい」という大きな勘違いを持つ危険性をはらんでいる。

 

それは、これが行動レベルの教育だからだ。

 

何故謝らないといけないのかなど、背景が欠落している。

 

謝ることそのものには、相手への思いやりを持つことであったり、その思いやりや申し訳なさを相手に表現することなど様々な意味を含んでいる。

 

それらに触れることなく、ただ「謝りなさい」とだけ教育しても、謝ることの大切さを理解してもらえることはない。

 

思考抜きの教育は簡単で手軽だが、被教育者の人間性の形成の上ではあまりよろしくないと思われる。

 

 

「講義のノートを取りなさい」というのも、行動レベルの教育だ。

 

ノートを取ること、つまり書くことそのものには特に意味はない。ノートを取ることで理解を深め、ノートを取ることで学ぶ意欲を教師に見せることが目的である。

 

もしこれらの目的が別の方法で果たされるのであれば、別にノートなど取らなくてよいのだ。

 

頭の中で言葉を反芻して理解し、視線で学ぶ意欲を顕すことができるのであれば、ノートを取ることは必須ではない。もちろんそんな生徒は稀である。

 

逆に目的を果たせていないようであれば、ノートを取っていても全く意味が無い。手が疲れるだけである。一番無駄な時間を過ごしていることだろう。

 

何のためにノートを取るのかわかっていない生徒にただただノートを取れと言っても、結局授業の内容は生徒に響かない。いかに分かりやすい解説をしていても、理解には繋がらない。

 

ノートを取れるようになった馬でも、念仏は理解できない。

 

スポンサードリンク

L-3 広義の教育

 

学校教育について語られるとき、話題に上がるのは狭義の教育のことだけではなかろう。

 

狭義の教育に加え、指導や解説の内容、つまり学習指導要領などが含まれてくる。

 

小学校などでは狭義の教育の割合が多くなるが、それでも解説なども範疇である。

 

これら全てを引っくるめて、私は広義の教育と捉えている。

 

多くの人は狭義と広義の2つの教育を混同しているように思われる。

 

人によって、状況によって、どちらの意味で言っているのかが変化する。

 

教育と言いながら解説のことを指していたりする。

 

だから意思疎通の上ですれ違いが起こる。

 

教育改革の内容に「何も変わっていないではないか」と納得がいかなかったりする。

 

これ以降本書で単に教育と書いたとき、それは狭義の教育であるとする。

 

 

L-4 学校と教育

 

生徒によく「何故学校の授業はあんなに分かりにくいのか」と聞かれる。

 

理由は大きく3つに分けられると私は考えている。

 

順に解説しよう。

 

学校というのは、解説、指導、教育の全てを実施している。実施することを社会に求められている。

 

その結果、力がどうしても分散してしまう。教師に必要な技能が3種類に増える。教科内容の研究など、解説の強化に割ける時間が減ってしまう。

 

教師に対する部活動の負担などが昨今問題になっているのを知っている読者も多いだろう。

 

予習や解説に時間をかけられないのだから、授業が分かりやすくなるはずもない。学校の先生の能力の問題ではない。塾講師と同じだけの時間を授業のために割けるのであれば、分かりやすさに大差は出ないだろう。

 

これが一つめの理由だ。

 

 

二つ目に、解説ではなく教育を動機に学校教師になる例があることが挙げられる。

 

授業の予習に手を抜いているとまで言わないが、彼らの意識は解説ではなく教育にある。つまり、数学を解説することよりも、人を育てることにやりがいを感じている。教育を目的に、方法の一つとして教育をしている。

 

勿論、解説の準備に時間を割く時間は同様にない。それを確保するよりも、どのような教育をするかに積極的に時間が割かれる。

 

 

三つ目の理由は、大学の教職課程だ。

 

教師になるために、教職課程の単位を取っている大学生は多い。教師になるために数多くのインプットをこなし、他の学生よりも忙しい大学生活を送って、教育実習を経て晴れて教師になる。この努力は褒められるべきだ。

 

考えてみてほしい。

 

その教職課程のうち、どれ程の割合が「解説」に割かれているのであろう。

 

本書で取り上げてきた予習や解説の思考回路やその実践について、どれほどが実用的に授業や実習で取り上げられるのであろうか。

 

教師とは、当然であるが、教育者だ。

 

倫理観や常識などが求められる職業である。

 

それは「教育」の観点からであり、「解説」のためではない。

 

社会や大学は教師のことを、教育者として扱っても、解説者と扱ったりはしない。

 

後述するが、そもそも大学に解説者などほとんどいない。だれが解説を教えるのだろうか。教授は解説を本業とした職ではない。

 

仮に大学が教育のプロを養成できる場であったとしても、解説のプロは育たない。

 

 

社会は学校に多機能を求めすぎである。

 

子どもの親や社会が、学校に教育を求めれば求めるほど、学校の解説は劣化する。それでも解説・指導・教育の全てを期待するのであれば、せめて高賃金を与えてはどうだろうか。今でも十分ユーティリティープレイヤーである。

 

 

L-5 学校教師と塾講師

 

学校教師と塾講師の違いは肌感覚で理解できているかもしれないが、ここまでの話を踏まえて改めて考えてみる。

 

学校教師には教育が求められ、塾講師には解説が求められている。

 

これは本人の意思や希望はさておき、社会のニーズにおいてである。

 

非常識な風貌で暴言を吐くような学校教師と、同様の塾講師では、恐らく前者の方が社会的なバッシングを受けるだろう。それだけ学校教師には、教育者としてより大きな責任を求められるのではないだろうか。

 

もちろん解説も上手な学校教師もいれば、教育を積極的に実践する塾講師も多い。塾講師歴が長ければ長いほど、教育に対する意識が高いことが多い。

 

 

私は教育に関しては苦手で、関心が薄い塾講師だということに自己分析で気づいた。必要に応じて教育をすることはあるが、それが実を結ぶことはあまりない。

 

気のある者は迎合し、自分の持ちうる全ての知識や知恵を伝えてあげたいと思う。しかし、学ぶ気のない生徒に対し、振り向かせてやろうと燃えることはない。仕事としてのラインを満たす程度で終わってしまいがちだ。

 

本質的に、私はそこまで人に優しくはないのだ。学びたいと思っていない人がいずれそれで困っても、それは自己責任だと考えている。「そのうち困るからやっておけ」と一度は言うが、それでも動かない人間にはそこで興味を失ってしまう。必要性が分かっているのにやらない方が悪いと本気で思っている。だから私は高校生専門の塾講師なのだ。

 

日本ではこのようなハッキリとした物言いは避けられがちだが、こんな私だからこそ解説と指導に注力して分析出来たのではないかと思われる。

 

こんな人間が学校教師にならなくて本当に良かったと思う。教える方も教わる方も損だったであろう。私は解説や指導は好きだが、積極的に教育することは出来そうにない。

 

 

大学生で塾講師のアルバイトを経て学校教師になろうという読者がいたら、是非とも自分にあてはめて考えてみてほしい。

 

あなたは教育は好きだろうか。好きならば、きっと教師は天職だ。

 

 

L-6 大学と教育

 

大学というのは教育機関であるとされる。

 

これが日本の社会で大きな勘違いを生んでいるように思われる。

 

大学というのは、これまでに取り上げてきた指導・解説・教育を積極的かつ能動的に行う場ではない。

 

大学教授というのは、これら3つのどのプロでもないのだ。

 

解説してやってくれ、指導してやってくれと言われ、研究の合間に行なっているに過ぎない。それが本業というわけではない。

 

もちろん広義の教育に関心があり、学生教育に積極的な人もいるだろう。しかしそれはあくまでも個人の意思であり、機関として強要するようなものではない。ましてや日本のような劣悪な研究条件では、教育などに時間を割いていられない。

 

大学は、あくまでも学ぶ機会を与えてくれる場だ。教育の場ではない。

 

ましてや学ぶ気が無い者にまで手を差し伸べるような存在ではない。まるで私のようだ。

 

高校までは指導・解説・教育の3要素を、学校と塾で補い合って満たしてきていた。その次の大学では、どれもまともにやってくれない。だから困惑し、もしくは不満を持つ。

 

全てを与えられていた学生たちは、自分で自ら学ぶことができないのだ。

 

ある意味、学ぶ態度を教え損ねた教育の失敗とも考えられなくはない。自ら学び始めるのを待たず、全てを与えてしまったのが敗因だ。

 

答えを与えられることに慣れてしまった人は、答えを求めるのである。思考を身につけ始めない限り、そのループから抜け出すことは難しい。

 


このサイトでは大学受験の悩みや、勉強法についての悩みの解決をお手伝い致します。


よろしければ他のページも是非ご覧ください。


直接面談やメール、Skypeによる個別相談・指導も承っています。


詳しくはプロフィールへ。



スポンサードリンク


HOME プロフィール お問い合わせ